記憶を運び、文化をつなぐ
〈アナンスパイス〉 メタ・バラッツが伝えるスパイスの世界
Text:Chisa Shiohira Photo:Kazuharu Igarashi
当店でも取り扱っている、手軽に本格的なカレーが作れる本型のスパイスミックス『カレーブック』。その製造・販売を手がけているのは、鎌倉のスパイス専門店「アナン」だ。
現在「アナン」を営むメタ・バラッツさんは、インド出身の父・アナンさんが立ち上げたこの店を受け継ぎ、現代の日本の暮らしに寄り添うかたちでスパイスを提案している。
今回は、レシピやコラムの発信、料理教室やイベントなどを通して、スパイスや料理の背景にある文化までを丁寧に伝えるバラッツさんに、その活動に込める思いを伺った。

― バラッツさんはここ鎌倉出身なんですよね。
中学生までは鎌倉で育ちました。その後はヨーロッパで暮らす機会に恵まれて、スイスとスペインで学びました。インドにも滞在したのですが、留学というよりは、自分のルーツにある文化をもう一度学び直すような時間でしたね。知識を得るというより、指導を受けにいくという意識が強かったです。
― 海外での経験は、スパイスとの向き合い方にも影響していますか?
間違いなく影響しています。今は本当に情報が溢れていて、料理も調べればいくらでも作り方が出てくる。それでも、実際にその味を食べたことがあるかどうかで、再現の精度やアレンジの幅って大きく変わってくると思います。特にスパイスは、ほんの少しの配合の違いで風味が大きく変わる繊細なもの。だからこそ、自分の舌で体験してきた味の記憶が活きてくるんです。スパイスって、それぞれの文化や土地の空気を映し出すものでもあるので、そうした体験があると、料理の中に広がる世界もぐっと豊かになると思います。
― 旅は今も続けているんですか?
最近はスイスにいたときに知り合ったマダガスカル出身の友人を通じて、現地のバニラ農園を訪ねました。品質の高いバニラを丁寧に育てている農園で、実際に現場を見て、香りを確かめて、作り手の話を聞いて…とても刺激的な体験でした。次はカンボジアのカンポットペッパー※の農園に行きたいなと思っています。
※カンボジア南部・カンポット地方で栽培されている胡椒。「世界一の胡椒」とも称される。


― 様々な国の食文化に触れてきたなかで、スパイスの使い方に共通点を感じた瞬間はありましたか?
あります。たとえばタコスを見ていると、「あ、これ、インドの料理とすごく似てるな」って感じることがよくあって。スパイスの使い方や、香りの立たせ方、さらには素材の重ね方にも通じるものがあるんです。最初は偶然かなと思っていたんですけど、歴史的に見ても、実は意外なつながりがあるようで。かつてスペインのガレオン船が、メキシコからフィリピンを経由して、さまざまな文化や食材、技術を運んでいたという歴史があって。その影響が、東南アジアやインドにまで及んでいたようなんです。そう考えると、地理的には遠く離れている国どうしでもゆるやかに結ばれていたのかもしれません。世界は思っている以上に有機的につながっていて、それが料理にも表れているんだなと感じます。
― 幼い頃、ご家庭の食卓にはどんな料理や香りが広がっていたんですか。
母が作る日本の家庭料理が中心でしたが、そこにごく自然なかたちで、インドの家庭料理が混ざっていたんです。母は日本人で、父はインド人。さらに、母方の祖母が一時期インドで暮らしていたこともあって、インドの味は我が家にとってすごく身近なものでした。うちでは箸でインド料理を食べていたんですよ(笑)。特にインドの豆料理は、実は日本の野菜ととても相性がいいんです。旬の野菜を取り入れて、四季ごとにアレンジすることもできる。そういう意味で、日本の風土とスパイス料理って、想像以上に寄り添いあえる関係だと思っています。

― インターネット上でレシピやコラムを発信しながら、スパイスのある暮らしを提案する「インターネット・オブ・スパイス」の活動もされていますよね。このプロジェクトはどのようなきっかけから生まれたのでしょうか。
飲み屋での何気ない雑談から始まったんです。ある日、知り合いがふいに「スパイス売りたいんだよね」って言い出して。「いやいや、絶対続かないでしょ」って内心思いながら聞いてたんですけど(笑)。意外にもその後本気になってくれて。友人と3人で立ち上げて、気づけばそれからもう9年も続いているんですよね。
今は毎週火曜日の17時にレシピを更新していて、気づけばその数は400を超えました。家庭でも再現しやすいように、材料も工程も丁寧に見せるようにしています。というのも、スパイスって、興味はあっても使い方が分からないと、なかなか日常に取り入れづらいものでもあると思うんです。ただ売るだけじゃなくて「どう使うか」「どう楽しむか」を伝えていくことも、同じくらい大切だなと感じています。

― 「アナン」の商品には、スパイス初心者でも気軽に手に取れるようなやさしさがありますよね。商品づくりに込めている考えについて教えてください。
日本の方が無理なく取り入れられるよう、配合を整えています。たとえばスープカレーキットには、北海道のカジカのパウダーや焼き昆布を、フィッシュマサラには瀬戸内の魚を取り入れて、日本の食材とスパイスの橋渡しになるようなものを目指して開発しました。また、父が42年前に「気軽に手に取れるように」と考案した『カレーブック』は今もうちの人気商品です。中にはスパイスが詰まっていて、本棚にも並べられるし、レシピも載っている、「食べられる本」のようなキットになっています。定番のバターチキンはお子さんにもとても人気があります。
実は、日本の調味料とインドのスパイスって、根本的に役割が違うんです。日本では、味噌や醤油のように塩味をもった調味料が中心ですよね。でもインドでは、スパイスは主に香りを担う存在。だから、「味が足りないからスパイスを足す」という感覚だと、ちょっとずれてしまうこともあるんです。スパイスは「味つけ」というより「香りづけ」。その違いを理解してもらえると、より自由に、楽しくスパイスを使ってもらえるようになるんじゃないかと思っています。

― 今開発に取り組んでいる商品はありますか?
鎌倉にある日本ワイン専門店とのコラボレーションで、大島の塩を主役にした「塩のカレー」を作っているところなんです。シメにさっぱりと楽しみたい方にも、しっかりとした味わいを求める方にも、どちらにも満足してもらえるように、バランスを調整しています。このカレーのベースにしているのが、塩の使い方に独特の哲学を持つ南インドのチェティナード地方の料理。素材の持ち味を引き立てるバランス感覚にとても優れていているので、そんな彼らのセンスを表現できたらと思っています。
チェティナードは、チェッティヤールと呼ばれる商人の一族によって育まれた土地で、彼らは塩や香辛料、宝石などの交易を通じて古くから富を築いてきました。約2000年前、津波によって町が壊滅的な被害を受けた際には、王朝の支援を受けて内陸部に移住し、そこから新たな商業を興していったという歴史もあります。その後も商才に長けたチェッティヤールたちは、金融業やタイヤ産業にも進出し、東南アジアにもネットワークを広げながら、豪奢な邸宅と独自の食文化を築いていきました。今でもマレーシアなどにその文化が受け継がれています。
― 商品そのものだけでなく、文化的な背景も一緒に届けているんですね。
そうなんです。「アヒージョスパイス」を開発した際に、あえてニンニクの代わりに「ヒング」という香辛料を使ったこともあります。ヒングは植物の樹脂からつくられるスパイスで、加熱することでぐっと旨味が引き出されるのが特徴。もともとアフガニスタンやインドなどで使われていて、特にジャイナ教の方々の食文化に根づいているんです。ジャイナ教では、土の中にある食材、たとえばニンニクや玉ねぎなどを避ける考え方※があって、代わりにヒングで旨味を加えてきたという背景があります。こうした文化的背景や素材の面白さを知ると、新しい味の世界が開けてくる気がしますよね。
※ジャイナ教では、「非暴力(アヒンサー)」の思想を重んじており、収穫の際に多くの微生物や小さな命を傷つけるおそれがある地中の植物は口にしないという考え方がある。

― スパイスにはこんなにもたくさんの歴史や文化が詰まっているんですね。バラッツさんの活動がさまざまなかたちに広がっていくのも、すごく自然な流れのように感じます。
父の仕事を手伝うようになった頃、やりたいことは他にもいろいろあったけれど、それに「スパイスを伝える」という視点を加えることで、出来なかったことが実現出来たり、もっと面白くなっていくんじゃないかと感じて、この仕事を継ごうと決めました。これからもいろんな国の文化や食材と向き合いながら、スパイスを通じた新しい表現を探していけたらと思っています。
スパイスの香りを嗅ぐと、何年も前に訪れた旅先の風景や、家族と囲んだ食卓が一気に蘇ったりするんです。季節や記憶、さまざまなものと結びついているんですよね。僕自身も、スパイスのように何かや誰かを少しでもよくするために寄り添えるような存在でありたいと思っています。いま考えているのは、スパイスや食文化を、もっと自由に紹介できる場をつくること。たとえば、スパイスに興味のある人たちがそれぞれの感性で表現して活躍できたり、来た人が五感を通してスパイスと出会えるような空間をかたちにしていきたいです。


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